Outsider Art Ⅰ

今日は、ミラノ市内に“Outsider Art”を扱っているギャラリーを訪れました!

専門家でも何でもないのですが、自分の理解のために、Outsider Artの概要を振り返ります。
□□□Outsider Artについて□□□

「Outsider Art アウトサイダー・アート」は、
フランス語の「アール・ブリュット Art Brut(生:なま・き)の芸術」の英語名です。

今ではアール・ブリュット=「障害がある方が創作する芸術活動」という認識が主流です。
しかし、1945年にフランス人画家ジャン・デュビュッフェが提唱した際には、「芸術家としての教育を受けず、知識や情報がない状態で、その自然なままの創造性を発露させた芸術活動」を意味していたそう。

「障害のある方が創ったから、芸術作品として素晴らしい」と讃えているとしたら、
「障害の有無というひとつの特徴を、なにか特別なものとして扱うのは差別的視点だ」、
「障害の有無に関わらず、芸術作品として素晴らしいものは素晴らしいだろう」
という問題提起が最近はされてきています。

参照引用:
swissinfo.ch スイス公共放送協会(SRG SSR)国際部
「アウトサイダーから主流へ 美術市場の狂乱に巻き込まれるアール・ブリュット」

「ロンバルディさんはさらに続ける。『社会的に疎外されている人に、一般人に優る才能がいつもあるとは限らない。アール・ブリュットで決定的なのは、作品が持つ躍動感、見る人に与える深い感動だ。つまり、アール・ブリュットの作家もそんなに簡単にあらわれるものではないのだ』

 

□□□私の思うこと□□□

私は単純に「他人との比較や視線、常識やあらゆる基準に囚われず、本来その人が持っている感性や創造性で、好きなように描いたり創ったり踊ったりする、その姿が美しいよな〜」と思っています。

そのプロセスが素晴らしいことと、結果が素晴らしいかどうかは、また別の話だとも思います。
そして、そもそも誰が素晴らしいと決められるのか、決める必要があるのか、あるとしたら何のためか、という問いもあります。

私は、いろいろなことを考えて、いつも何かの基準と比べて生きがちなので、
そんなことが出来ることに、尊敬しかありません。

 

 

 

 

Outsider Art Ⅱ

Outseider Artギャラリーに行った話のつづきです!
Maroncelli12は、ミラノのガリバルディという六本木のような開発エリアの裏路地にありました。
予約しないとあかん、ということで、あらかじめメールをして伺ったところ、
ギャラリーの持ち主のAntonia Jacchiaさんが待っていてくれました。

展示会「Paolo Baroggi. In arte Schwarzenegger」はPaoloさんという作家の個展でした。Antoniaさんから、イタリアのOutsider Art事情や、ライフストーリーを伺って素敵な方だわ〜と
思ったので、本人の許可を得てここに共有します!適宜、編集していることはご了承下さい。

 

Web site:Maroncelli  12

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展示会のポストカード

 

Paoloさんの作品創りについて

もともとPaoloさんは精神病院に入院されていて、その後、アトリエに通うようになりました。
彼は突然訪れる怒りを制御できず、暴力という手段に頼ることが多くありました。
軍隊に所属していたこともあるほど、立派な体格をしているため、なかなか危険でした。

アーティストが、キャンバスに怒りをぶつけることを薦めたときから、
彼の作品創りがスタートしました。

彼の作品は、キャンバスを大きく横切るような黒く太い線など、
男性性が豊かに表現されているものが多いです。

ちなみに体格が良いので、あるときから俳優の名前を借りて、
シュワルツネッガーという別の名前も名乗るようになりました:)

 

イタリアにおけるOutsider Artの実情とは

イタリアでは、トリエステ県の精神科医バザーリオさんの「自由こそ、治療だ!」とする
掛け声から、1978年に精神病院をなくす改革が行われました。
精神病院に人を閉じ込める病院の在り方が非人間的であるとして、
地域で受け容れる方法を模索し始めました。

病院が設置している、治療としてアートを描くアート・セラピーの施設と、
地域のアーティストが開いている、自由に創作活動を行うアトリエがあるそうです。

Outsider Artは、後者のアトリエで書かれたものを指します。
もともとアール・ブリュットは「障害のある方による芸術作品」を意味しましたが、
本来は「芸術の教育・訓練を受けていない人が、ある種孤独な状態で、自然にある創造性を発揮した作品」を言います。かつては、イタリアの田舎になると、娯楽や情報が少なかったため、いわば孤島のような状態だったため、彼ら農民が描く作品もOutsider Artとされていました。
現代ではインターネットの普及により「孤独」を確保するのは、たとえ田舎でも不可能です。
そのため、Outsider Art=障害がある方の作品という認識が一般的になりました。

パリやニューヨークでは、Outsider Artのアートフェアがあり、足を運ぶとすごい活況ですが
イタリアにはなく、人たちの関心も薄いのが現状です。

イタリアの精神病院の改革のお話や、日本の改革の事例のウェブサイトリンクを貼付します。
 参照ウェブサイト:
 イタリア・トリエステの精神医療に関する講演
 べてるの家の「非」援助論
 イタリア映画「人生、ここにあり!」

 

Antoniaさんがギャラリーを始めた理由

私は、大学の経済学部を出ました。
経済学部を選んだのは、就職も容易でしたし、世の中に必要とされていそうだったからです。
両親もそれを望んでいました。

にも関わらず、大学卒業後はニューヨークに飛んで、5年間くらい色々なことをして過ごしました。
1980年代のニューヨークは、アートが盛んで、本当に面白かったんですね。書くことが好きだったのでアートに関する「ライター」になろうと思い当たり、イタリアに帰国することを決めました。

でもイタリアのアート業界は閉鎖的かつ権威が重要な世界で、入っていくことが出来ませんでした。
その折に、「経済部で新聞記者として働かないか」という声を掛けてもらいました。
アートではなかったけれど、もともと経済学部でその知識を活かすことが出来るし、
有名な新聞だったし、断る理由はありませんでした。
そのときから数十年、イタリアを代表する新聞紙で働かせてもらってきました。

でも、どこかでアートに関わる仕事をしたい、とずっと思ってきました。
Outsider Artに出会ってから、その気持ちがどんどんと強くなるのを感じていました。

ちょうど夫が知り合いのつてで、ビルの一室を無償で使えることになったのをきっかけに、
「アートに関わりたい、ギャラリーをやりたい」という思いに正直になることに決めました。

私はもう50歳代で若くないし、高いお給料を保証されていた仕事をやめるのは勇気がいりました。
一方で、新聞社はデジタル化によって、かつてあった栄光を失いつつあるように見えました。
愛着のある会社が沈んでいく姿を見るのは、私にとって本当に痛みを伴うことでした。
なので、いいタイミングだったと思ったんです。

新聞社の友人たちには「Are you crazy?(一体どうしちゃったの?)」と何人にも言われました。実際、アート作品を売るのは簡単なことではないし、大変ですが、
幸いにも賃貸料がかかりませんし、理解ある夫がいます。今、本当に幸せです。

新聞社の友人たちは、初めて展示会に招待したときに「You are lucky」と言いました。
私が元気に幸せで好きなことをやっていることが分かったから。
私は本当にラッキーだと思っています。

 

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似顔絵。メガネがよく似合う美しいAntoniaさんでした。