アクター・ネットワーク理論

Domus Academyでは、通常レクチャーにも企業や外部組織の方が講師にやってきますが、
全学生向けの特別レクチャーにも、ゲスト講師がやってきます。

3月にいらしたのが、東京工業大学建築科の塚本由晴先生でした。
 
事前に塚本先生の記事は拝読したことがありました。
東京の建築の景色について、東北や地方の建築の体験、どういった建築がこれから求められるか等を、非常に幅広い知識と深い教養を背景に語られているのが面白く、講義をとても楽しみにしていました。

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塚本先生のお言葉

「“私”がこれを考えた、ではなく、先にコレがあるから、私は考えることが出来たのではないか。
自然・モノを含めた民主主義が必要ではないか。
個人が主体ではなく、関係性が主体のデザインがあるのではないか。
関係性の質がこれから重要になってくるのではないだろうか」

といった趣旨のことを語って下さいました。
私が聴きたかったお話をして下さり、講義中ゾクゾクと興奮が止まりませんでした。
ネット上にも対談されている記事などがたくさんあるので、ぜひご覧下さい。

コモナリティ会議 05:社会デザインの主体はだれなのか──多様なる合意のかたち
http://10plus1.jp/monthly/2014/06/commonality-05.php

講義の後に、「ボローニャという街にリサーチに行きたいんですが…何かアドバイスはないでしょうか?」という非常にざっくばらんとした質問をさせて頂いたところ、ブルーノ・ラトゥールが提唱した、アクター・ネットワーク理論を参照するといいかもしれないというアドバイスを頂きました。

下記が薦めて頂いた書籍一覧です。

科学が作られているとき―人類学的考察 ブルーノ ラトゥール
http://www.amazon.co.jp/dp/4782801211

<原本>
Science in Action: How to Follow Scientists and Engineers through Society Bruno Latour
http://www.amazon.co.jp/dp/0674792912

虚構の「近代」―科学人類学は警告する ブルーノ ラトゥール
http://www.amazon.co.jp/dp/4794807597

<原本>
We Have Never Been Modern Bruno Latour
http://www.amazon.co.jp/dp/B00AQLFQIO

早速購入して拝読したのですが…私の少ない脳みそでは「…ぷしゅーーー」という音が聴こえそうな難しさだったのですが、面白そうなことをおっしゃっていることは分かりました。

  • 自然・モノと人間とを区別することで、悪しきハイブリッドを生んできた(例:ハイブリッドモンスター:原子力発電所)それを隠して、自然と社会を純粋化することで、生産性を向上してきたのが今の社会である。
  • アクター・ネットワーク理論では、人間だけをアクターとして捉える人間中心主義ではなく、モノ自体もナラティブなアクターとみなし、アクター同士が相互に影響し合っているネットワーク(関係性)に着目している。
  • ネットワークが機能するときに、翻訳*というプロセスが重要である。
    (*翻訳=アクターたちが置かれている場面がどんなものかはっきりさせ、その中における各自の役割を明確にすることで、他のアクターに働きかけたり、自ら行為することを可能にする。アクター同士の結びつき、恊働の枠組みが作られるプロセス)

いくつかアクター・ネットワーク理論を元に書かれた論文があるので、そちらをご覧頂ければ理解が進むかと思います!

私が興味のあるデザインに絡めた論文だと、立教大学の小林敦さんの論文が面白かったです。

「共進化するテクノロジー・デザインの可能性 ─ パパネック、ノーマン、ラトゥール、カロンの社会デザイン学 ─」

Click to access 010.pdf

takram design engineering の田川さんが、「機械・テクノロジーが進んでいけば、人間中心主義ではなく、機械中心主義が来るのではないか。例えば、自動運転の車が走れば、その機械が動きやすいような仕組み・制度・インフラが整えられていくだろう」と語っていらっしゃいました。

学校のデザインの歴史を振り返る授業で、映画「2001年宇宙の旅」で道具を使いはじめる猿のシーンを取り上げられました。その際、「人間の意識が変わらない限り、モノによって人は主体になり道具に追従するだけ、時代が移り変わっても変わらないのではないか」という問いかけがありました。

そうであるとしたら、さらに機械化が進んだとしても、これまでと何ら変わらない世界が続くだけという気がします。

私は、自然やモノと、人間の関係性への着目と、道具やモノの存在によって初めて主体になるヒトという観点がありながらも、意思を持つ主体者としてのヒトの意識変化に希望を感じています…!

レッジョ・エミリア教育

イタリアのレッジョ・エミリアは、ユニークな幼児教育で有名な街です。

インターネットで検索してもらえば、日本の幼児教育に関わる人たちもツアーを組んで、たくさん訪問されていることが分かります。私もイタリアに来る前に、先輩から薦められて興味を持ち、訪問してきました!

レッジョ・エミリア教育を実際に行っている幼稚園は、多数の訪問者によって環境が乱されてしまうために、今は訪問することが出来ないのですが、教育研究機関であるレッジョ・チルドレンのセンターを無料で見学することが出来ます。

「光と影」をモチーフにしたワークショップ、森にある素材を使ったワークショップetcetc、レッジョ・エミリアの幼稚園で行われている様子が展示されていました。

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留学する前に、日本で友人が主催する光と影を題材にしたワークショップや、アートのワークショップに参加したときに、自分自身を内観して新たな学びを得る自律的な生き方のサポートに通じる効果を実感したため、そういた教育がもっと日本に増えるといいな〜と思っていました。
なので、すでに日本含め世界中に輪が広がっているレッジョ・エミリアを訪問できて良かったです。

レッジョ・エミリア教育については、下記のサイトが分かりやすいので、お父さんお母さんの皆さまはご参照下さい!

http://www.hoiku-shigoto.com/report/news/reggio-emilia/

最後に、レッジョ・エミリア教育の創設者であるローリス・マラグッツィ氏がうたった有名な詩があるのでご紹介します。

詩の引用元:
http://www5e.biglobe.ne.jp/~kkh/kodomotatinohyakunokotoba.htm

「でも、百はある。」
ローリス・マラグッツィ (田辺敬子 訳)

子どもには

百とおりある。

子どもには

百のことば

百の手

百の考え

百の考え方

遊び方や話し方

百いつでも百の

聞き方

驚き方、愛し方

歌ったり、理解するのに

百の喜び

発見するのに

百の世界

発明するのに

百の世界

夢見るのに

百の世界がある。

子どもには

百のことばがある

(それからもっともっともっと)

けれど九十九は奪われる。

学校や文化が

頭とからだをバラバラにする。

そして子どもにいう

手を使わずに考えなさい

頭を使わずにやりなさい

話さずに聞きなさい

ふざけずに理解しなさい

愛したり驚いたりは

復活祭とクリスマスだけ。

そして子どもにいう

目の前にある世界を発見しなさい

そして百のうち

九十九を奪ってしまう。

そして子どもにいう

遊びと仕事

現実と空想

科学と想像

空と大地

道理と夢は

一緒にはならないものだと。

つまり
百なんかないという。

子どもはいう
でも、百はある。

ヴェネチア・ヴィエンナーレ

去年の10月に、2年に1度開催されるアートの祭典、”ヴェネチア・ヴィエンナーレ”に行ってきました。
世界中のアートが集まってきて、大きな会場2つと街中を使って展示されるとても大きな祭典です。

約2日をかけて回ったのですが、とにかく会場が広大かつ作品が多様で味わい深く、時間が足りなかったという印象でした。日本の塩田千春さんの「《掌の鍵》 – The Key in the Hand – 」も拝見してきましたが、会場での作品の見せ方、メッセージ性、素晴らしかったです。
一緒に行った友人は、鍵を世界中から集めてきて糸で大きく編み上げた作品を見て、「この根気強さや繊細さは日本人だからこそ出来る芸当だ」と言っていました。

アーティストの問題意識、理想とする世界、切り取られた現代の世界が色々なアートで表現されていました。イタリア中だけでなく世界中からやってきた、ベビーカーに乗る赤ちゃんから、老夫婦まで、老若男女様々な人と空間を共有しながら、作品を鑑賞しました。
その時に感じたのは、「アートは、世界をリフレクション(反映)すること、新しい世界観を提示することで、問いを立てる行為」だということです。そして、アートを鑑賞することは、「多様な世界観を味わい、表現されている問いについて自分と対話する行為」であって、各々が自分の世界観を再考する貴重な時間なんだと思いました。

作品の紹介は他のブログや情報に譲るとして、私がとりわけ印象に残ったことは、2つです!

1. 最後のアート作品

2つある大きな会場が終わると、出口を通る確認をされて、小さな庭へと進みました。そこには5つくらいの作品が展示されていて、数字の順番にしたがって、最後の作品は何だろう、とワクワクしながら回っていきました。そして…最後に待ち受けていたのは、高い壁で囲まれた入り口を通ってたどり着く先にある、庭の中心に立っていた「大きな木」でした。

アート・芸術作品は、自然の創造物には勝てないというメッセージでしょうか。
そこにたどり着くまで、あらゆるアートの表現に圧倒され感動しながら回っていたのですが…
1番印象に残ったのは、最後の作品でした。

夕方の太陽の光にさらされた若々しい緑の葉っぱと、年老いたしわの目立つ幹が美しかったです!

2.アートのみかた

2つ目は、一緒に回ったのがクラスメイトのチベットから来た同世代の女の子でした。
ヴィエンナーレは私がかねてから来たくて、友達を誘って行きました。

誘った側として感想が気になり、どうだったか聴いてみると…

「私は、ひとつひとつのアートの中に、自分の人生を見て、色々な感情が湧いてきた」と語っていました。

私は、「そっか〜こういうことあるよな〜」「このアーティストはこんな風に見ているんだな〜」と、どちらかというと客観的に鑑賞していたのですが、その隣で彼女は自分をアートの中に没入し鑑賞していたことがわかりました。

彼女によると、チベット国内では、一定の年齢になると学業試験があり、優秀な生徒に選ばれた人は、中国の学校に進学し中国政府関係の期間に勤めることになるそうです。彼女はその道から途中ではずれ、中国の民間企業への就職を選びました。
両親はパスポートを持つことが困難で、海外への渡航は難しく、もし彼女が海外で就職することを決めれば、あるいは公で少しでも政治的な発言をしようものなら、2度と会えなくなると言っていました。

私のクラスメイトには、中国人の友人もたくさんいて、もちろん彼女は中国語も堪能で仲良くしていますが、ふとしたはずみで政治の話になれば、少し緊張感が走ります。

彼女は、同世代の女子と同じように、とてもオシャレでチャーミングで(チベット首都の若者の写真も見せてもらいましたが、東京の若者のようにとってもオシャレでした)、一見してどれほどのストーリーを背負っているのか思いが至りません。今回の旅を通じて、大変な決断を背負って勉強しているのだな〜と知りました。

アートは、そんな無数の世界の生き様やシーンを反映する貴重な媒体だと実感した旅になりました。

あらゆる体験を自分の内面を振り返る機会とすること

これがなかなか難しいことですよね。

イタリアに来てから、大分「うわ〜嫌だな〜」「本当に腹立つな〜」「イライラするな〜」ということがたくさんあって、そのたびに感情をぶつけ、色んな人・ことを失ってきた気がします。

そのときに何を感じて、どういう行動をとったか、については自分が選んだことで、その結果起こったことに、後悔することはありません。

あらゆる出来事を味わい、自分の内面に起こることと向き合い、行動につなげるのは、自分についてどこかでひっかかっていることと向き合うので、なかなかしんどいプロセスです。

但し、「あらゆる出来事を自分の内面を振り返る機会とすること」は「自分を責めたり、罪悪感にひたったり、感情をないがしろことにすること」ではありません。思ったことや感情はそのまま受け容れた上で、自分は本当はどうしたいかを選択して、表現することです。

生まれつきの気性を変えるのは諦めているのですが(笑)、意識的な行動を選択できる&それに責任を持てる大人に少しずつ成長出来ればと思う次第です。

アイデアに大きなビジョンを求めること:NHK LIFEコント「突き詰めると…」

もともとお笑い・漫才が好きなのですが、NHKのLIFEというコント番組がとりわけ好きです。
ウッチャンは、人を傷つけないで自ら笑いをうむことが出来る、道化者の天才だと思います。

色々な物事や世界をユーモアをもって汲みとれるお笑い芸人は、思いやりと優しさと賢さに溢れた本当に素晴らしい人たちだな〜〜〜と心から尊敬しています。

ところで、LIFEでは「突き詰めると…」というコントがあります。
学校の職員室にて、先生同士で展開される会話のコントです。
コントは、先生たちが防災訓練や、学芸会の劇テーマ等について議論した結果、結論に至るシーンからスタートします。そこで、先生の1人が「…これでいいんでしょうか。もっと突き詰めた方がいいんじゃないでしょうか?」という問い掛けをし出すことで、ムロツヨシ(大好き)が「えっ(今更?)」と唖然としながらも、議論が思わぬ方向に転がっていくというコントです。

この前、大学の友人との会話で、「大学入りたての頃は、クリティカル・シンキングに従って議論する際に、批判的な視点を取り入れることと、ムダな問答をふっかけることが違うことに気がつかなかった」という話をしていました。このLIFEでのコントは、まさにムダな問答・ムダに長い会議によって、議論が本筋から離れていく様子が描かれているわけです。

とはいえ、この「もっと突き詰めた方がいいんじゃないでしょうか?」という問いって、使い方・使用目的によっては、とっても大切な質問である気がしているのです。

グループワークでアイデアを明確にしていくときに「これでいいじゃん」と早々と結論付けられることは多くあります。そんなときに、もっと視野を大きく広げる(例:アイデアの企業、人、社会、未来へのインパクト)ことで、アイデアの意味合い、チームがそのアイデアに取り組む意味合いが増すことがありました。

私は、その質問をふっかけたがる理想屋のため、チームからは面倒くさい奴、あるいは、「はいはい、分かったよお母さん」と呼ばれるような存在になっていましたが、最終的には、対内的にも対外的にもアウトプットの納得度が高まったと思っています。

多少面倒くさい奴と思われても、言ってみませんか…??

「もっと突き詰めた方がいいんじゃないでしょうか?」

「人間は意味を食べる動物だ」

国や既存のシステム、権力というものを頼りに出来ない時代がいよいよやってくる…として、

・原発:東京含め、土壌・海洋が汚染されている可能性
・財政破綻:いつか確実に破綻する可能性
・大地震:南海大震災含め、新たに地震が起こる可能性

更に、世界の情勢の変化、ビジネスの勝ちモデルの変化、旧産業形態における日系企業の失速、少子高齢化、人口減少という社会の変化の中、税収の減少、社会保障制度の破綻、内需市場の縮小と盛りだくさんの“不安”予測の状況の中で、

リスクをとって、(あるいは、動かない方がリスクをとっていることになるのかもしれない)新しい産業を創ろうとしたり、地方のコミュニティを創ろうとしたり、オリンピック呼ぼうとしたり、NPOの活動を興したり、安全保障の枠組みを再考したり…色んな人たちが色んな立場で新しいパラダイム・時代を創ろうと活動をしているのが、今の日本だとして…

これまでその強化に加担してきたシステムに、いよいよ頼れないと自覚したときに、セーフティネットになるのは、自律した人同士のつながりだと思っています。(あるいは、円以外の資産運用、海外への移動、既得権益で最後までふんばるか…)

人と人とのつながりがあれば、お金はいらない、とは言いません。
人と人とのつながりの中で、価値を交換、意思表示する媒介としてお金は大変便利な発明だと思います。

しかし、自分の体験上、お金がないとき、無職のとき、どん底の気分のときに、転機や救いは、人との出会いや人の助けによって切り拓かれて来たので、人とのつながりの重要性を感じています。

では、そのつながりは、物理的なコミュニティである必要があるのでしょう?
今は、オンラインでも、オフラインでもつながり創りをすることが可能です。

1.オンライン:興味関心に基づく繋がり創り、遠隔での業務遂行
2.オフライン:身体性を伴うコミュニケーション、物理的な交換行為

オンラインでのコミュニケーションは、近い将来、テクノロジーの進展によって、リアリティーさが増すことで、人間が肉体の移動をそもそも行わないですむ時代が来る可能性もあります。
そうすると、いよいよマトリクスのホルマリン漬けの人間が登場するのかも・・もはや生きている必要があるのか、命があるとはどういうことなのか、哲学的な疑問が湧いてきます。

なんとなくそんな未来が透けて予想される中で(感覚的にまだまだ先な気がしますが)、時代のトレンドに生きている「意味」への渇望がある気がしています。

そして、ひしひしとマシンに中毒になりつつあり、肉体的なコミュニケーションを失いつつあることが自覚される中、生きている「実感」を味わえる、身体性を伴う喜びへの渇きが、オフラインの色んな活動として表現されている気がします。

自然のそばにいること、対話すること、歌うこと、ふれること、歩くこと、五感で感じること、描くこと…

…ということで、イタリアで学んだ/学び始めた/ふれたことを「意味」の軸で整理しようとしたのですが…難しかった…笑。一旦、下記の整理で置いておきます。

☆意味を創る行為
・Design Management:デザインマネジメント
・Design Driven Innovation:意味のイノベーション(Roberto Verganti教授)
・Design as solutions to problems & Design as Manifestos:
課題を解決するデザイン&マニフェスト(新しい意味の提言)としてのデザイン

*Desgin Driven Innovationは別の記事でご紹介します!

☆意味を耕す行為
・アート・文化的活動

☆意味を語る行為
・AoH等のダイアログの場づくり

でも、こう書いていて思ったのですが、今、「意味がない」と思っていることでも、後から、意味を帯びてくることってありますよね。
私は、意味のないことを極力したくないので、(例えば誰かのミスで、グループワークで単純に無駄な作業が発生するとめっちゃムカつきます)基本的に、コントロールしたりプランしたりしたい傾向があると思っています。

単純な生産性に関わるようなところは、合理的に無駄をはぶき、大切な命を無駄なことに使わないようにする努力はした上で、何が意味(≒答え)のあることに転ずるか分からない不確実な世の中で、自身のコントロールや答えを分かっている、あるいは、答えがあるものだという傲慢さや支配欲求、思い込みをいかに手放すかが大切だな〜と思いました。

ということで言うと、より大きな意味は、個人ではなくて、例えば他者とのダイアログ・場から立ち上がってくるということなのかな…?

AKB48 、モーニング娘。どっちが好き?

私は、つんくプロデュースのアイドルの方が好きです。

というか、そもそもアイドルは好きではありませんでした。それは、どうしても、踊っている画面や歌詞の隙間に、秋元康氏やおじさんの顔がちらちら見え隠れしてしまうから。

どういうタイミングでこの歌詞を思いつくんだろう?
どういう表情でこの歌詞を書いてるんだろう?
実は、結構ドライにキーワード分析して組み合わせで歌詞書いてんのかな?
秋元康さんはどれくらい儲かるんだろう?

などなど、完全に私の色眼鏡ですが、ゲスい妄想がとまりません。
それに比べて、モーニング娘。’14(やっぱり道重さんは可愛い)は好意を持てるのです。
どうしてでしょうか……

狙っているターゲットのボリュームゾーンが違うのだと思いますが、

・AKB48は、男子が思い描くファンタジー上のこうあってほしい女子
・モーニング娘は、女子がこうありたい女子

を描いている気がします。

・AKB48は少年漫画に描かれる女子
・モーニング娘。は少女漫画に描かれる女子、例えて言うなら、・・先生の描くセーラームーン

のような感じでしょうか。

そしてまた、AKB48は、最初から意図したわけではなく、今の総選挙等の仕組みができていったと秋元氏は語りますが、結果的に世界観がうまくブランディングされた、素晴らしいビジネスを展開しています。

一方で、今のモーニング娘。は、今もおそらくプロモーションに色んな企業が関わっているのでしょうが、AKB48と比較したときに、認知度が高いとは言えません。AKB48ビジネスに学ぶことはたくさんあり、あのマインドセットを手に入れたいと思いつつ、モーニング娘。には、下克上好き、お金の話題が苦手な日本人アイデンティティ的にツボにはまります。

最後に、歌詞なのですが、AKB48は…眩しすぎるキラキラファンタジー理想の女子が描かれています。
(アイドルがそもそもそういう商売で、それはそれで素晴らしい文化なんですけどね)
一方で、モーニング娘。は、なかなか本質的な歌詞が並んでいるんです。

この歌詞なら、つんくの顔が彼女らの隙間からのぞいても、「やっぱり全盛期を築いて、体調を崩してでもなお立ち上がるつんくさんだからこそ、こんな歌詞が書けるんだよな〜」と逆に愛着が湧くのです。
そして、こんな歌詞を若い頃から地声で歌い、踊り、鍛え上げられていくアイドルたちは、
いい人生を歩んでいくだろうな〜と勝手に思います。

海外からの人気が高い、あるいはターゲットとしているため、歌詞にも英語が併記されており勉強にもなりそうだ。素晴らしいよ、つんくさん。

海外にて日本の”可愛い”アイドルに励まされる28歳女子の雑感でした。
どうかAKB48のコアなファンさんからツッコミがきませんように。

最後におすすめを2曲紹介します!!歌詞をページ下に引用させてもらいました。
皆さん、ぜひ聴いてみて下さい〜〜〜〜

・「What is LOVE?」 モーニング娘。’14

・「ドスコイ!ケンキョにダイタン」こぶしファクトリー
 (※作詞家はつんくさんではないですが、また良し!!)

人間中心デザインの次まで見据えて

“人間中心デザイン”、”サービスデザイン”、”デザイン思考”といった言葉が昨今注目を集めています。

人間の感情、感性やふるまいについて傾聴・観察した上で、モノ・サービスをデザインすることが、
企業や組織の競争力の源泉になっていると言われています。

企業や組織の知恵や動力の源泉は、人であることを考えると、1人1人がまず自身のニーズや感情に向き合うことが出来ること、そして人のニーズや感情を捉えようとすることが重要ということかもしれません。

ワークライフバランス、都市集中、満員電車の再考、女性男性グラーデーションのある性/あらゆる多様な人の活躍できる場の拡充、アートやデザインへふれる機会を増やすことなどは、ひいては、国の文化的な豊かさだけではなく、経済的な豊かさに確実に繋がるのだと思います。

哲学的に突き詰めていくと…人間中心にデザインすることが、ひいては、自然環境、モノやテクノロジーとどう向き合い共生するかという問いに変わってくるのかもしれません。。。

「頑張る」

イタリアに暮らしていると、頑張っている人を見かけない気がしています。

ここで言う”頑張る”とは、肩が上がって呼吸も浅く声がどこかよそ向きな、何かに急かされているような無理している状態をイメージしています。というのも、私がもともと、頑張ろうとする=無理をしようとする人で上記のような状態でした。

「イタリアでは、そういう人をあまり見たことがないな〜」と、日本に荷物を送る際、日本の宅配便会社の非常に丁寧で親切なサービスに触れたときに、思いました。それは、こちらが「本当に有難うございます」と重ね重ね言いたくなるような仕事ぶりでした。

イタリアでは、めったにそんなサービスはありません。

日本語の漢字の成り立ちについて研究していたことがある研究者のイタリア人と、(あえて集団の傾向があるとしてそれを明確にするとしたら)日本人とイタリア人の気質の違いは何か?と話していたことがありました。

「イタリア人はとにかく古いものを愛する」「日本人は新しいものも愛する」など、いくつかの違いが挙がって、それはそれでまた面白いので、別途書きたいのですが、今回取り上げたい違いは、

「イタリア人は自分を愛する、いつなんどきも自分が1番素晴らしい」
「日本人は他人を重んずる、自分のことは謙遜する」

という点です。

これは、イタリアで生活していて、すごく納得がいきます。

みんな、ただ自分のために生きています。
愛する自分のために生きて、余力があったら、家族を筆頭に他人を思いやる。
自分の好きなように、やりたいように、やりたいだけやる。以上。

という生き方が垣間見えます。

私はどっちも素晴らしいと思うのですが、
1番最初のトピックに戻って、自分が本当は苦しいのに、
何か他人のために、世間体のために頑張っている人がいるとしたら、

「頑張る必要はないよ。自分のために生きる以外することあるの?」
と声を掛けたいな〜と思います。

他人のため=自分のための境地に至りながら、あるいは、純粋に自分のために仕事しているなら、
それは本当に素晴らしいし、そう在りたいと思います。

ダブル・バインド

日本って面白い国だな〜と思います。

留学先には圧倒的なインド・中国人・タイ・韓国・南米・ヨーロッパのクラスメイトに比べ、
日本人は少なく、というか今年の修士には私だけで…
イノベーション事例をあげる授業では、破壊的イノベーションとイノベーションノイズ(イノベーションと呼べない新しいモノ)をあげるときに、日本のたまごっちやセルフィー棒がノイズとしてあげられ…
起業家精神の授業では、トップ20に日本は全く出てこず…
日本の満員電車の動画が、この国に生まれないで良かったと安堵の目で見られ…

割と居心地の悪い思いをすることがあります。

「日本=かつての経済大国、極東のどこかに浮かぶ島国」といった感覚を覚えることがあります。

一方で、授業内で、日本出身のデザイナー、アーティストが取り上げられることが多くあったり、
トヨタのKAIZEN、禅/Less is moreの考え方が取り上げられたりします。
また、デザイナーのポートフォリオ作成の授業では、
「自分のアイデンティティ、ストーリー、オリジナリティを明示しないとダメだ。
 君たちは、”日本人”という面白いアイデンティティを持っていないんだから。」と語られたりします。

そのたびに、私は、「日本人として誇らしくなる」思いと「日本人というアイデンティティに頼らない自分らしさを見つけたい」という思いにかられます。

ところで、この記事で言いたかったのは、日本って対外的にすごくダブル・バインドなメッセージを発しているんじゃないかな、ということです。

そう思ったのは、クラスメイトのコロンビア人とインド人と宗教観・自然観について話していたときに、日本は、神道、八百万の神という考え方があるという話に対して、インド人に「でも、ゴミめっちゃ出しているし、自然破壊しているよね、と言われたことです。

Less is more、自然や動物崇拝、諸行無常、静謐、KAMAKURAといったイメージとともに、
めっちゃ働く、モノがたくさんある、カオスといった相反する(考え方によっては相反しないのかもしれませんが)イメージも同時に発している気がします。

それがカオティックでわけわからなくて、日本面白いねっていうブランドにもなっているのかもしれませんね。

スウェーデンは少なくとも対日的なブランドイメージでは、自然が豊か、社会保障が充実、心・文化的に豊かな生活のイメージがありますよね。
実際、スウェーデンは戦略的に国のブランディングに努めていて、下記のようなブランドのガイドラインも制作しています。

http://sweden.identitytool.com/

…とまで思って、知り合いのスウェーデン人が、スウェーデン人は、仕事、私生活、あらゆる役割において完璧を求められて辛いと言っていたので、対外的なブランドイメージが一貫していても、内部の人がどう思うかは別の話しかもしれません。

ということで言うと、私自身がダブル・バインドで悩まないように生き方を選択すればいい話なのか…?